人生は不思議だらけ

二十代の人間です。雑文メインの日記です。

誠実に生きるけど、真面目には生きないというのもありなんじゃないか

誠実さというものが何なのか私自身あまりよくわからないまま24歳になってしまった。それはとってももったいないことだと思うので、一回誠実さとは何なのか考えて、自分なりに整理してみようと思う。

最近思うのだけれど、真面目だけれど誠実でない人って自分を含め結構多い気がする。真面目にやってきました、という人は多いけれど誠実にやってきましたって人はそう多くない。誠実という言葉自体あまり聞かない。

 

誠実にやってきたっていうのは、心を込めてやってきた、という意味と似ているような気がする。

誠実という単語を辞書で引くと、[名・形動]私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。また、そのさま、と出た。真心、という言葉が付いているあたり、心を込めて、という私のイメージとそう遠くない気がする。

つまり誠実さとは心の持ちようによって左右されるということになる。

心の持ちよう、というのはきっと、物事をどう扱うか、対応、態度、attitudeに近いものなんだと思う。

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真面目、という形容詞はあまり特徴がない人にもっとも使われる形容詞なのではないだろうか。あんまりよく知らないけど、まず真面目っていっておけば悪い印象はもたれないし、真面目だねって言われてもあんまり誉め言葉に聞こえなかったりする。まああくまで私のイメージだから違う意見もあると思うけれど、どうも私は真面目と言われても嬉しくないのだ。

真面目というのは行動が律せられている、というようなニュアンスがある。忠実に仕事をこなしあまりお金を無駄使いせず時間を守り他人に迷惑をかけずに生きている、というのが私の真面目のイメージだ。

そして真面目な人ほど何か意にそぐわないことが起こると真面目にやってきたのに!!!と怒り出したりする。真面目に子育てしてきたのに!とか真面目に働いてきたのに!という具合に。まず間違いなく真面目にやってきたことはすごいことだと思うのだけれど、真面目にやってもそれを対価になにかを得られるかというと、意外とそうでもないような気がする。

真面目にやる、というのは大体何か我慢している状態なんじゃないか、前提にやりたくないけど、と枕詞のようについているように感じるのだ。身を粉にして、自分の考えややりたいことを犠牲にして生きている人が真面目な人なのではないだろうか。

そして何より真面目というのは行動の基準なので目に見える。誠実というのは心のありようなので目に見えない。

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私の両親は間違いなく真面目な人たちだ。そして二人とも他人の目線をものすごく気にする人たちだった。ご近所さんには必ず挨拶する、外に出るときにジャージは着ない、そのほかにも色々あったが、半端なく人の目を気にするので、私はむしろそれに反発して15歳くらいから自分の気持ちを優先するようになった。両親を反面教師として、真面目ではなく誠実に生きるようにシフトしたのかもしれない。心底両親のようになりたくないのだと思う。

勿論真面目な人が全員人の目を気にしているわけではないと思う。というか誠実かどうかは人の心の持ちようによってかわるから、本当のところはわからないのかもしれない。

ただどうしても思うのは、自分は自分に誠実でありたいということだ。自分の気持ちに誠実でありたい。周りにも誠実でありたい。誠実であるというのは真摯に向き合うということだと思うのだけれど、私はそれができていなかった。自分の感情に流されて行き当たりばったりに行動してきたが、誠実に自分に対応してきたかというとそうでもない。自分がどれだけ自分に誠実になれるかは、やっぱり普段どれだけ違和感は感情に注意をはらってるかで決まるんだと思う。小さいころから親に怒られる理由が意味が分からないことはよくあったけれど、その違和感にしっかり向き合ってこなかった。もっとしっかりむきあっておけばよかったと今になって思う。癖をつけておくべきだった。

誠実に生きていけるといいなと思う。誠実に行動して誠実に話す。誠実に、というのは心の持ちようが一番大切なので、心の動きに耳を傾ける必要がある。誠実に、心に、感情に誠実に生きたいと思う。